”舐達麻”というHIPHOPグループを知っていますか。
BADSAIKUSH、G-PLANTS、DELTA9KIDという、いずれも30代の3人組で結成されているグループ。体にはタトゥーが入り、いかつい風貌、過去には金庫破り、大麻所持といったいわゆる「悪い大人たち」。なのに彼らが作る音楽はとても詩的で、情緒があり、なぜか胸の奥をぎゅっと締め付ける。
舐達麻と”会った”瞬間
私が彼らの音楽と出会ったのは本当に偶然で、いつもどおりあてもなく散歩しているときに、Applemusicの自動再生でたまたま流れてきた。「FEEL OR BEEF BADPOP IS DEAD」だ。私はラップが好きなわけではなかったし、HIPHOP界隈とはまるで縁のない人生を送ってきた。舐達麻、という言葉は知っていたけれど、それも「俺は俺だが お前と俺で俺になる」というネットミームをかろうじて知っていたくらい。音楽をきちんと聞いたこともなく、これからも聞くはずはなかった。
だけど、偶然聞いた「FEEL OR BEEF BADPOP IS DEAD」に衝撃を受けた。曲の冒頭、まるでこれからバラードを聞くかのような悲しくも寂しい女性の声が聞こえる。それがあまりに心地よく、一瞬、自分が渋谷のスクランブル交差点に立って、通り過ぎる人をスローモーションで眺めるような情緒的な風景が流れる。私がいたのは代々木だったけれど。
そんな曲の始まりに没頭してしまいそうになった時、「お前の曲はパクリで 俺のはREQUIEM」とBADSAIKUSHの強烈なパンチが入ってくる。鳥肌が立った。何も知らない私でも、これはかなり攻撃的な曲なんだとわかる。聞くほどに、強い言葉で誰かをディスっている歌詞。言葉遊びをしながらも強く、強く相手を非難する曲。正直、こんなにも直接的な表現をする歌詞があるものかと、J-popとK-popをふわふわと浮いていた私は衝撃を受けた。それなのに、バックグラウンドで流れる音楽は、あの情緒的な女性の声とリズム。すべてのテンポ、歌詞、男女の声。攻撃と静寂、その違和感がさらに彼らを引き立てているような気がした。
私は1度散歩をするとノンストップで3~5時間くらい平気で歩き回るのだけれど、全ての時間を、その1曲と共に過ごした。それくらい、引き込まれてしまった。
そのあと、ほかの曲も聞いた。MVも見た。彼らの音楽は、静と動だと思った。眠れない夜に、行き場のない閉塞感に、それでも生活は続いて、明日も生きていく。「よっしゃ頑張るぞ」と心を奮い立たせてくれるというよりは、ただ目の前にあるものを淡々とこなしながらも自分の心の炎は消すなよと言われている気分だった。
練習したのは、身体に染み込ませたかったからなのかも
そしてなぜか私は、「FEEL OR BEEF BADPOP IS DEAD」を歌えるようになりたいと、練習し始める。披露する場所もなければ、友達にも内緒なのに(今も誰にも打ち明けていない)。とにかく洗面台の前で彼らと同じように歌ってみるのだ。
笑った。あまりに言いなれない言葉に。言ったこともない言葉をラップに乗せて自分が歌っている姿を鏡で見るたびに「何をしているんだ」と笑った。私にはあまりに似合わない姿だったから。それでも、なぜか毎日何回も何回もラップの練習をして、今じゃ完璧に歌える。大人になっても、何かを一生懸命練習すれば習得できる、という教訓をこんな形で実感することになるとは。人生何があるかわからない。
舐達麻に関しては、色々ネットに出ている記事も読んだし、「FEEL OR BEEF BADPOP IS DEAD」が何をもとに作られた曲なのかも知った。彼らの過去の話とか、公にされている限りで知った。ネットで揶揄されていたあの言葉は、彼らのバックグラウンドからくる祈りのような言葉なのかもしれない、と思ったりもした。
絶対に自分とはこれからも関わることのない人たちと、それを取り巻く世界。なのに私はこんなにも勇気づけられ、仕事に行くときは彼らの曲を聴き、静かに闘志を燃やしている。曇りの日は「BUDS MONTAGE」を聞き、そのまま「100MILLION (REMIX)」が流れる。平気な顔してバスに揺られる私は、人知れずそんなことをしている。
いわゆるHIPHOPという音楽を心から愛している人たちにとって、私のように片足だけつっこんで都合よく享受しているタイプを見ると嫌悪感を抱くだろう。舐達麻をとても好きな人たちからしても。いいとこ取りをしているという自覚もある。
私は、公に「私は舐達麻が好きです」と言うつもりはない。日々のヒットチャートが変わるように、いつも誰かの曲が、誰かにヒットしているのだから、私にとってもそういうものだと思う。だけど、私が今までよりも少しだけ強くなれているのは、間違いなく彼らの曲があったから。そっぽ向きながら背中を押してくれる、そういう他人行儀な優しさを彼らから感じるたび、「私は私で頑張るしかないか」と、そう思える。
終わりに
東京。誰かが、東京にいるといつも誰かと闘っているようだと言っていた。
私にはまだ、東京という場所にそこまで感情移入して語ることはできないけれど、どこにいても、向き合うべき相手は自分で、自分の人生を一番考えているのは自分。神様も私ほど私のことは見てくれていないと思う。
私が明日も明後日も、同じように生きていくための、お守り。
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